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樹医SATO
母の忘れな草
戦下に過ごした青春 父母は何を得て何を失ったのだろうか。

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いらっしゃい

花言葉:「私を忘れないで」
「はじめに」
 第二次世界大戦が終わってから75年たち,戦争は遠い過去のことになりました。
 子どものころは戦後10年ちょっとで戦争を今よりもずっと身近に感じました。戦争の跡がたくさん残っており,それを語る人もたくさんいたのです。すべての大人たちが戦争の体験者でした。
 父母は戦争の体験をよく話してくれました。それは普通に語られ青春時代を懐かしんでるようでもありました。
 父母の青春時代は戦争を抜きには語れないものでした。
「二十四の瞳」
 小学生のころ時々巡回映画があり教育映画を見せてくれました。1年生から6年生まで一緒なので低学年の子どもたちには内容が難しかったと思います。しかし,映画館に行くのは楽しいことでした。
 戦争が終わり大石先生は教壇に戻りました。新1年生の呼名をしながら教え子たちを思い出します。多くの教え子を失った悲しみの中に新たな希望が生まれます。激しい戦争と戦後の混乱を教師として生きた大石先生の姿は,同様に生きた私の母の姿と重なりました。
「戦争の思い出」
 これは母(佐藤照子)が千葉県退職婦人教職員の会夷隅支部発行の文集「忘れな草」に残した作品です。千葉高等師範学校を卒業し,勝浦小学校の教師だったころの思い出です。
 戦争も末期をむかえたころ勝浦小学校はグラマンの襲撃をうけました。バリバリバリ,校庭を穴だらけにし,屋根瓦を吹き飛ばして機銃弾が突き刺さりました。母は地面に顔を突っ込み震えながらこらえました。学校も戦場でした。懸命に子どもたちを守った母の姿見えました。
 青春時代を戦争と軍国主義に翻弄され,混乱と貧困の戦後を生き、母は私たち四人を育てました。平和な時代が訪れ,私は教師になり子どもたちを一生懸命に教えることができました。教え子を戦場に送ることなく平和な時代に定年をむかえました。
 終戦から七十数年がたちました。父母もすでに亡くなりました。戦争体験を語れる人が少なくなった今,小さな戦争体験でも残そうと思いました。
「父の戦争体験」
 親が子に体験を語ることは大切なことだと思います。そうでなければ子はどうやって親のことを知るのでしょうか。
 父(三郎)も兵隊だったころの体験をよく話してくれました。二等兵として軍隊を直接経験した父は噛みしめるように語りました。過ぎ去った青春へのなつかしさとも苦悩ともつかない複雑な気持ちがあったように感じました。父の青春時代も軍隊と切り離せないものでした。
「戦争の残り香」
 戦後生まれの子どもが見たり聞いたりしたことを元にして見た第二次世界大戦の姿です。
 戦争を直接体験した大人がいなくなりました。当時を感じていただけたら幸いです。



戦争の思い出

1.空襲の恐怖
 「ブーブーブー」「あっ、まただ。」警戒警報だ。しばらくすると、それが空襲警報に変わる勝浦小学校への登校途中だったので急いで学校への坂を駆け上がる。生徒を集め各方面に集団下校させる。先生方は防空壕に入る。

 防空壕は校舎と運動上の脇の岩山に六帖ほどの壕(横穴)があった。中は水がしたたり寒かった。その壕の中で朝の朝礼もそこそこに御真影をを守るべく待機していた。

 しばらく空襲の報もないと思い、外に出ていい空気でも吸おうと思った。空は澄んで青い。いい気持ちだと思ったその途端、はるか上空の左の方に小さな三センチくらいの編隊の飛行機だ。あれは日本の飛行機だと言っているうちに、三センチくらいの編隊のものがワーッと十メートルくらいになると同時に、バリバリバリっと機銃掃射、あっと言う間に去り、外は元の静寂に戻った。
 おそるおそる外に出てみると校舎の屋根瓦はめちゃめちゃに落とされ、運動場は蜂の巣のようにえぐられていた。皆、顔は真っ白、怖くて震え、誰一人として口を開くものはいなかった。校庭に出ていたら命が危うかったと思う。「壕の中でよかった。」と胸をなでおろした。

 この日、家に帰って昼食をしていた五年の女の子が、腰に貫通銃創を受けたとのこと、勝浦駐屯地の高射砲がB二十九に応戦したため、B二十九が引き返して駐屯地は攻撃され、学校に駐屯していた兵隊が担架で運ばれていくのを見た。勝浦小学校は海軍の駐屯地だった。
 その夜もB二十九の襲撃は続いた。
 当時の教師の衣服は、みなカーキ色に染め、手に手っ甲をはめ、下衣はモンペの上に脚絆を巻き登下校していた。

2.苦痛
 食糧難、配給が少ないので悲惨なものだった。
 米の中にサツマイモ、南瓜が入っていた。でも、それはまだまだよい方で、次第に水分が多くなり具がういているようになった。

 学校は一に増産、二に増産の掛け声とともに、山の中腹、校舎の隅々、ありとあらゆるところに芋を植えた。それを皆で食べた。朝食が少ないので二時間もすると腹が減りぐーぐーと鳴った。昼食を楽しみにしていたが、出てくるものはサツマイモ二、三本。弁当箱は何かしらと開いてみると比時期だけという、白いご飯は見えない。配給のサツマイモだけでは足りないので母が着物を背負って農家を回り買い出しに行き、米を背負ってきたものだった。

 増産でこんなエピソードがあった。
 教室の後ろの庭に畑を作ることになり皆で土を耕したが、土は表面だけで下は岩だった。結局、灯台の方まで四キロの道程を背負い籠を背負って皆で土集めをし岩砂の上に土を盛るのだが、五年の女の子ではいくらも背負えなくなかなか植えるまでには至らなかった。二、三日続けてやっと畑らしくなり、サツマイモの苗を植えた。他の学級の芋の葉は色艶もよく見事だったが、私の学級の芋は一向に育たず惨めだった。
 当時の校長先生から「佐藤学級のは育ちが悪いな。」と言われ、考えた末、下肥をかけることにした。そのかいあって葉も見事に茂りやれやれと思った。さて、収穫の時期になって、つるの割にサツマイモは小さく細くがっかり、それを蒸して食べたり、茎を油いためにして食べたりしたのも、なつかしい思い出として残る。

3.服装
 男はカーキ色の国民服、女は着物を解いて作った標準服、生きていくのがやっとで衣服など売っていない。みんな痩せこけていた。

4.振り返ってみると
 師範学校時代は、満州事変、卒業と同時に太平洋戦争(第二次世界大戦)の五年間、敗戦、軍国主義教育から民主主義教育の混乱期、現在の乱れた世相、バブル崩壊、リストラ、食料、衣料、日常品はちまたに溢れ人の命の尊さなど忘れられた世紀末的混乱、心の底から嘆いたり、又、怒りが込み上げて来て爆発したりしている昨今であるが、よくもまあ、こんな時代を歩んできたものだと気がついたら八十歳を越えていた。

忘れな草


グラマン



父の戦争体験

[はじめに]
 父は終戦時,22歳でした。まだ母と結婚する前のことです。
父がいたのは,茨城にあった航空隊でした。小柄で体が弱かった父には相当に辛かったようです。
子どものころ時々,中学校時代や軍隊にいたときの話をしてくれました。それを思い出せる限り順を追って書きました。

1 [蓋の割れた筆箱]
 私が中学2年生のころ,父が使っている筆箱を見せてくれました。白いセルロイド製(?)でした。蓋が真ん中から折れるように割れていて,その部分をひもで継いでありました。「これは中学生のときから使っている筆箱だ。」と言いました。当時は,既に戦後20年たっていました。父は物を大切にしました。この筆箱にはいろんな思いでがあるのだろうと思いました。今でもその筆箱を鮮明に思い出します。

2 [ドラム缶風呂に入ろうとして]
 父は軍隊に行ってから一度も風呂に入れなかったそうです。あるときドラム缶風呂があり,湯も沸いており,誰もいなかったので入ろうとしました。はだかになって,つま先をちょこんと入れた瞬間,「貴様,二等兵のくせに生意気だ。」と大声がしました。振り向くと上官がいました。父は殴られました。裸のまま直立で敬礼をしたそうです。どんなに悔しかったことでしょう。

3 [胸の傷跡]
 一緒に風呂に入ったときに胸の傷跡を見せてくれました。「これは航空隊にいたときに運んでいた爆弾の羽で切ったんだ。赤チンをつけて自分で直したんだ。」と言いました。見ると胸の真ん中に5センチくらいの傷跡がありました。爆弾を運んでいた時に羽のとがった部分が当たったのでしょう。上半身裸で作業していたのでしょう。これだけの傷,相当に痛かったに違いありません。父が亡くなったときにも私はこの傷を見ました。傷跡は昔のままに残っていました。

4 [軍隊の食事]
 食事が少なくてみんないつも腹をすかしていました。みそ汁の具が毎日牡蠣で飽きてしまったとも言いました。しかし,牡蠣は栄養豊富なのでよかったと思います。腹が減って力が出ないので兵隊たちはいつも怒られていました。[貴様らは,飯を食ったばかりなのに力が出ないのか」と。 当時父は,痩せこけて初期の栄養失調だったようです。

5 [敵機襲来]
 飛行場整備の土木作業をしているとき,グラマンの急襲を受けました。降り注ぐ機銃弾から逃れて近くのトマト畑に逃げ込みました。その時,プーンとう羽音とともに蚊が飛んできました。よほど印象に残ったようで,この話は何度も聞来ました。蚊の羽音でふと我にかえり,ほっとしたのかもしれません。ところでグラマンの機銃の威力はすさまじく,手足が吹っ飛ぶほどだったといいます。

6 [ゼロ戦の大事故]
 250キロ爆弾を抱えて出撃したゼロ戦が不調で戻ってきました。そして着陸するときに爆発しました。爆弾は投下できない仕組みになっていたのだそうです。操縦士は奇跡的に助かりましたが,大やけどをおいました。「色白のきれいな男だったがひどいやけどで顔が焼けただれてしまった」そうです。250キロ爆弾を抱えた戦闘機は,爆弾の重さに脚が耐えられないので再び着陸はできないのだそうです。

7 [終戦を迎えて]
 戦争が終わると軍隊は解散になり,兵隊はみな故郷へ帰りました。父も辛い日々から解放されました。うれしくて航空隊基地から千葉県の長生村の家まで夜通し線路伝いに歩いて帰ってきました。こうして父の軍隊生活は終わりました。軍隊で支給された飛行服を夏用と冬用を持ってきました。冬用の服は防寒性に優れ,これを着てごろ寝しても風邪をひかなかったそうです。これは金に困って売ってしまったそうです。夏用の服は綿が入っていましたが薄手でした。つなぎになっており,前をボタンで留めるようになっていました。これは私が中学生の時,夜に勉強するとき防寒用に着ていました。

8 [少尉になった夢]
 父が亡くなる少し前,訪れた私に興奮気味に言うのでした。「少尉になった夢を見たよ。襟に少尉の階級章がついていて,まるで本当のようだった。」と。
 戦争が終わって何十年もたつのに,まだそんな夢を見るのかなと思いました。私にとっては戦争はもう現実味のないことでした。しかし,青春時代を軍隊の底辺で過ごした父にとって少尉という階級は何よりもうらやましいものであったに違いありません。二等兵だと馬鹿にされて毎日殴られることもないのですから。軍隊生活での苦しみがPTSDとなって今なお心の底から燃え上がるのを見て父の心の傷の深さ,戦争の罪深さに気付きました。一生忘れられないつらい思いをしたのだと思いました。

9 [長男の遺影]
 父は在職中に心筋梗塞になりバイパス手術を受けました。退職後は数年働いていましたが心臓の具合が再び悪くなったので家にいるようになりました。あるとき,「この額をかけてくれないか」と私に言いました。それは戦後まもなく亡くなった長男の写真でした。この写真は子どものころから毎日目にしていましたが私には長男の記憶がありません。七五三の飴の袋を手に下げた幼い子どもの写真でした。 「この子がかわいくて仕方がないんだ。もうすぐ会えると思うとうれしい。」というのでした。もう長くはないと思ったのでしょう。そして来世に希望をつなぐ父の気持ちを知って寂しくなりました。父はうれしそうに写真を眺めていました。

[おわりに]
 戦後も困難な時代が続きましたが,教員,警察官と職を変え,母と結婚し,私たち4人の子どもを育てました。しかし,長男は心臓病のため幼くして亡くなりした。戦後まもなくのことで,よい治療を受けさせることができませんでした。
 父も母も青春時代を戦争の真っただ中に過ごし,戦後は夫婦で人生を紡いできました。父は74歳で心臓の病により他界しました。
 晩年,病床の父はもう一度筑波山を見たいと言っていました。このことから父がいたのは「筑波海軍航空隊」だったろうと思います。「筑波海軍航空隊」跡地には,今も当時の建物が残っています。司令部だった建物は記念館になっています。また,地下トンネルや地下司令部も残っていて見学できます。父は,これらを作る作業の合間に筑波山を眺めては,いつ終わるともしれない日々に耐えていたのでしょう。そう思うと筑波山を眺めてたたずむ父の姿が目に浮かんできました。

 筑波海軍航空隊の司令部庁舎は現在は記念館です。

 父とは無関係ですが掲載させていただきました。



戦争の残り香

[はじめに]
 子どものころは戦争の余波というか戦争の匂いがまだ残っていました。その匂いは否応なく体にしみついてくるものでした。
 「母と父の忘れな草」を書いたのを機に子どものころから戦争について見たり聞いたりしたことを掘り起こしてみました。その断片をつなぎ合わせると自分なりの戦争像(観)が浮かび上がるだろうと思ったのです。「戦争の残り香」という題にはそんな背景があります。

「双胴の機影」
 習志野に住んでいた3〜4歳ごろのこと,早朝に家の外から不思議な音が聞こえてきた。窓を開けると遠くの丘の上のまだ薄暗い空に,こちら向かってゆっくりと飛んでくる飛行機が見えた。それは黒いシルエットだった。その飛行機の胴体は二つあって一つの翼でつながっていた。丘の上には高い鉄塔がいくつかあった。不思議な形をした飛行機が頭上を飛び去るまで見ていた。※写真はネットより借用

「兵隊さんがいた教室」
 大多喜町立大多喜小学校の旧校舎は木造平屋であった。4年生の教室は少し離れていて廊下でつながっていた。そこは戦争中に兵隊さんが駐留していたという。カーキ色の服を着た兵隊さんが出入りする姿を思い浮かべた。

「校舎の外壁の穴」
 校舎は南京下見の板張りの外壁であった。その一部に細長い裂け目のような穴があった。何か硬くて鋭いものが斜めに突き抜けたようだった。あれは機銃弾の跡だと友達が教えてくれた。アメリカ軍機が機銃掃射をしていく様子を想像した。こんな田舎の小学校まで攻撃の対象になっていたのだ。

「橋の欄干の弾痕」
 大多喜町の隣町の国吉に鉄の橋があった。その欄干に気銃弾の穴があるから見に行こうということになった。子どもら4,5人で自転車でえっちらおっちら出かけた。国吉までは一本道で,当時は自動車も少なく信号もなかったのでまっすぐ進めばよかった。しかし,当時の道路は砂利道でえらく疲れた。やっと橋にたどり着いた。みんなで身を乗り出して覗き込んだ。鉄の橋げたにはいくつも穴が開いていた。機銃弾が貫通した穴だった。橋を通る車や人が攻撃されたのだろうと思った。

「機銃弾を探しに行こう」
 5年生のときだったか,機銃弾を探しに行こうということになった。町をぐるりと巡って川が流れている。川岸の所々に断崖がある。その断崖を戦闘機の射撃訓練の標的にしていたのだという。だからそこには弾が刺さっているはずだというのだ。そこで大多喜高等学校近くの川岸の崖にみんなで出かけた。崖を降りることになったが,弾を探すどころではなかった。必死に草をつかんで足場を探した。怖くて足がすくんだ。やっと下につくといたときにはホッとして体の力が抜けた。結局収穫はなかった。

「友達が見せてくれた弾丸」
 問題になるといけないので詳しいことは控える。6年生の時だった。あるとき友達が教室で弾丸をそっと見せてくれた。それは銅色をしていて先のとがった弾頭だった。底には鉛らしい金属が詰まっていた。子どもの掌の上では大きく感じた。たぶん小銃弾の弾頭だったのだろう。こんなものがまだ転がっている時代だった。※写真はネットより借用

「においガラス」
 6年生のときだった。少し厚いガラスの破片のようなものを持ってきた子がいた。これをこするといい匂いがするよと言った。ズボンでこすると爽やかな香りがした。ガラスではなく透明なアクリルのような感じだった。たぶん戦闘機の風防ガラスの破片だったのだろう。空中戦で戦闘機が墜落したという記録もある。後年,風防ガラスの破片を「においガラス」というと聞いた。※写真はネットより借用

「松根油」(しょうこんゆ)
 町はずれの小高い丘に大多喜女子高等学校があった。小学生のころは,ここのグラウンドでよく野球をした。校舎周辺には太い松の木が何本もあった。松の木の幹にはV字型の大きな傷がいくつもついていた。飛行機の燃料にするために松脂(マツヤニ)を集めるためだった。だが,松脂からガソリンを作ることはできなかったようだ。当時,松根油を作るために松脂をとったのだと聞かされたが,松根油は松の根を乾溜して作るものであって全く別物だった。松の木は今は一本も残っていない。

「飛行機から投下された通信筒」
 子どものころ母から聞いた話だ。町はずれのある家の上空に飛行機が飛んできた。そして操縦席から通信筒が投げ落とされた。出撃前に恋人にお別れに来たのだと母は言った。通信筒を投げ落として飛び去って行く飛行機を思い浮かべた。通信筒を落とした人の気持ちと受け取った女性の気持ちを想像するととても寂しい気持ちになった。

「ドングリの粉の配給」
 戦争中は食料が配給だった。そして物資が乏しくなると食べるものがなくなった。食べ物がなくて誰もが痩せこけていた。そんな食糧難の折,ドングリの粉が配給になった。
 「ドングリの粉が配給になったけど苦くて食べられなかった」と祖母が言っていた。
 シイやマテバシイ以外のドングリは苦くてそのままでは食べられない。水にさらしてあく抜きをして食べることを知らなかったのだ。
 その他に,竹を煮て食べようとしたが硬くて食べられなかったことや買い出しに出かけてやっと手に入れたお米を列車の臨検で没収されてしまったことも話してくれた。
 祖母は若いころ東京の「小村寿太郎」氏の屋敷で奉公していたという。そこでは「うめ」と呼ばれていたそうだ。ちなみに本名は「もと」だ。奥様から「うめは品がよくていいねえ」と言われたことを時々うれしそうに話した。

「伊藤の大山に墜落したB29」
 大多喜町は山間の地にある。標高245.8mの伊藤の大山はこの辺りでは一番高く山深い。
 戦争中に伊藤の大山に東京を爆撃したB29が墜落した。搭乗員数名が捕らえられて大多喜中学校に連行された。取り調べを受けた後に処刑されたという。戦争が終わるとアメリカ軍がやってきて処刑にかかわった兵隊たちを連行した。
 後に得た情報によると搭乗員たちは逃亡を企てたために処刑されたとのことだった。また,終戦後にアメリカ軍によって連行された日本兵は,指導的立場だった少尉が懲役12年の判決を受けた。一般の兵士は無罪だったそうだ。
 私は墜落現場に行ってみたいと思う。しかし,それがどこなのかわからない。

「人間魚雷回転を格納した崖の穴」
 小学4年生ときの夏休みに東京から親戚家族がやってきた。一緒に勝浦の猿山に行った。猿山とは猿を放し飼いにした公園だった。駅からタクシーに乗った。途中に切通しの崖があった。車を止めると運転手さんが海側の崖を指さした。崖には大きな穴が開いていて向こうに海が見えた。「人間魚雷を入れた穴だよ」と説明してくれた。海辺の町には海の兵器にまつわる話が多い。いすみ市大原にも人間魚雷回転を格納した穴が残っている。※写真はネットより借用

雑誌「丸」
 小学校3年生のころ「週刊少年サンデー」が創刊された。私は兄とお金を出し合って創刊号を買った。40円だった。とても面白かったので毎号買うようになった。(その翌年だったか「週刊少年マガジン」が創刊された)赤塚不二夫さんの「おそ松くん」が特に面白かった。月刊誌もいくつかあった。「少年」「冒険王」「少年倶楽部」などがあったと記憶している。「鉄腕アトム」「鉄人28号」「まぼろし探偵」「伊賀の影丸」「サブマリン707」などがあった。「隼一平」という戦記物もあった。毎週,毎月を楽しみにしていた。
 そんな中に異色の雑誌「丸」があった。これは太平洋戦争の兵器や戦争体験記を扱った雑誌だった。私は時々これを買った。戦争についての記述や記録写真が珍しかった。本当の戦争が分かるはずもなかったが,体験記からは兵士が戦った様子や気持ちを知ることができた。どの体験記にも生きて故郷に帰りたいという気持ちが根底にあったように思う。
 また,たくさんの悲惨な写真を見た。川岸の砂に半分埋もれた無数の兵士,火炎放射器で黒焦げになった者,小銃で自分の喉を撃って自殺した者等どれもむごいものだった。故郷では親兄弟が帰国を待ち望んでいただろう。しかし,現実には多くの人がこのように命を落としたのだった。これが日本が戦った戦争の姿だった。
 坂井三郎さんを知ったのもこの雑誌だ。坂井さんは大小64機を撃墜したゼロ戦のパイロットだった。後に彼の著書「大空のサムライ」も読んだ。幾多の空中戦を行い自分自身も生きるか死ぬかの大けがをした。空中戦の様子や戦っているときの気持ちが冷静に記述されていた。
 ずっと後で知ったことだが,坂井さんはアメリカで開かれた航空機関係の行事に招待されたおりに脳溢血で亡くなったという。アメリカの戦闘機をたくさん撃墜した敵であったにもかかわらず日本の撃墜王として敬意を表してくれたという。
 この本から得た知識は多い。同時に戦争のむなしさ,悲惨さ,寂しさ,悲しさをいつも感じた。

「自衛隊の展示会」
 6年生の時,大滝小学校の校庭で自衛隊の兵器の展示会が開かれた。友達と見に行った。大人も子どももたくさんの人が来ていた。が展示された。普段絶対に手にすることのできない珍しい道具や武器に興奮した。今なら大問題だろう。いくつかを紹介する。
@手回し式発電機
 腰かけて両手でぐるぐる回す発電機だった。後に新潟の大雪で派遣された隊員が使っているのを見た。
Aカービン銃
 第二次世界大戦でアメリカの歩兵が使っていた自動小銃だった。小型で軽く,小学生でも持てた。「銃身に乗せた一円玉が落ちないように引き金を引くんだ」と教えてくれた。引き金を引くと「カチャッ」と音がした。
BM3サブマシンガン
 グリスを入れる筒のようなのでグリースガンとも呼ばれていた。プレスした鉄板を溶接して作られた鉄の塊のような粗末なものだった。鉄パイプのような短い銃身がついていた。引き金を引くと内部で重い鉄のおもりがガクンと前に動いた。

C4連装対空機関銃
 鉄板で囲まれた操縦室があり,その周りに上下2連の12.7mm機関銃が左右についていた。小さなガソリンエンジンが動力として後ろについていた。エンジンをかけると全体が上下左右に素早く動いた。動きの速さにびっくりした。
「これを使うときは,敵と刺し違えるつもりでやるんだ」と隊員が言った。
D90mm高射砲
 長い砲身を持ちグレーに塗装されていた。4本の足を広げて地面に固定されていた。ハンドルをぐるぐる回すと砲身が動いた。小学生でも回せるほどハンドルは軽かった。高射砲だが対戦車砲としても使われた。
「これに狙われたら戦車もひとたまりもない」と隊員が言った。
Eハーフトラック
 前方にタイヤ,後方がキャタピラという珍しいものだった。後方の荷台には37mm対空砲がつけられていた。大きな模擬弾が装填されて光っていた。ハンドルで砲を動かすことができた。
 「丸」から知識を得ていたので武器については理解できた。
 この展示の目的は隊員を集めるための宣伝であったろう。珍しいものがたくさんあり心をひかれた。そのころはどこの家も貧しかった。中学を卒業して自衛隊の学校に行ったり,高校を卒業して防衛大学校に行ったりする選択肢があった。中学生の時には友達とそんな話もしていた。私は防衛大学校へ行きたいと真剣に思っていた。衣食住にお金がかからないうえに給料がもらえるからだった。しかし,神様は私をその道には進ませなかった。

「戦争から帰ってきた先生たち」
 中学一年のとき,社会科の最初の授業で先生が自己紹介してくれた。
「私は戦争で捕虜になってハリコフというところにいたんだよ」
 そして壁に掛けられた大きな世界地図でハリコフの場所を示してくれた。日本から遠く離れたところだった。授業内容は覚えていないが,このことを鮮明に覚えている。
 当時の中学校には戦争経験のある先生が珍しくなかった。南方でアメリカ軍の捕虜になった先生がいた。その時の様子を話してくれた。
「アメリカ軍の戦車を対戦車砲で撃ったんだ。するとビョーンといって弾が跳ね返ったよ。アメリカ軍の捕虜になった。毎日アメリカ兵と野球をやった。だから今でも野球が好きだよ。」

 中学2年のとき,放課後に友達と一緒に電鍵を使ってモールス信号の練習をしていたときのこと。当時私はアマチュア無線をやっていた。廊下を通りかかったS先生がにこにこしながら入ってきた。
「俺にもやらせてくれよ。軍隊で通信兵だったんだ」
先生は座ると思い出しながら懐かしそうに電鍵を打ち始めた。何を打っているかわからなかった。多分軍隊で使っていた信号なのだろう。その様子がとても印象に残っている。S先生には英語を教わった。

「佐野照子先生」のこと
 勝浦市の海沿いに古い木造二階建てのアパートがあった。今の勝浦三日月ホテルの前あたりだった。そこに中学2年の時に国語を教わった佐野照子先生が住んでいた。母は佐藤照子だったので時々間違えられたと母が言っていた。
 ある時友達と二人で佐野先生の部屋を訪れた。先生は急に訪れた私たちを喜んで迎えてくれた。
 どういう話をしたのか今ではほとんど覚えていないが,戦争中のことを話してくれたのを覚えている。戦争中はおなかが減ってどうしようもなかった。道に落ちていた焼き芋の皮を拾って食べたことがあるという内容だった。本当にひもじかったのだろうなと思った。
 先生は後に早稲田大学の先生と結婚することが決まり退職された。

 昭和46年に茂原市にある県立長生高等学校に入学した。学校には名物先生が何人もいた。後に女子マラソンの指導者になった小出義雄先生がいた。まだ30歳くらいだった。体育を教わった。先生の体育授業は楽しかった。ちなみに小出先生の奥さんとは同じクラスだった。
 名物先生の中には授業中に戦争体験を語ってくれた人がいた。ずいぶん昔のことなので記憶が定かでないところもある。

「漢文のA先生」
 先生は中国戦線にいた。
「中国大陸は広くて,いくら歩いても麦畑が続いていた。この広い麦畑のどこから敵兵が出てくるのだろうかと思った。
 中国人は戦争に勝ってもボーッとしていたよ。
 日本であるお宅におじゃましたとき,中国から持ってきたというきれいな陶器がおひつ代わりに使われていた。その容器がどういう用途であったかを知っていたので遠慮したくなった。だが,もう十数年もたつので大丈夫だろうと思った。」
 先生によれば中国の家庭では部屋には便所がなく,陶器を置いておいて用を足していたのだという。これはとても参考になった。

「国語のB先生」
 先生も中国戦線だったと思う。
 「みんな戦争のことを気軽に言うが,戦争はひどいものだよ。夜の歩哨に立った時のことだった。そこには処刑された捕虜が何人も埋められていた。その髪の毛が夜風にゆらゆらと動くのだよ。とても気味が悪かった。」と語る先生の目は暗かった。今になると先生が大変な体験をしてきたことがわかる。どんな気持ちで教壇に立っていたのだろうかと思う。

「英語のC先生」
 先生は第一高等学校の学生だった。寮生活をしていた。
「食べる物がなくてひもじかった。寮の仲間と鉄かぶとを鍋にして猫を煮て食べた。すごくフケ臭かった。」
 さりげない知的な冗談が面白かった。先生の英語は楽しみだった。

「大学の数学の先生」
 大学の先生には戦争のことを話す人はいなかった。だが,数学の先生が授業中,どういうわけかちょっと話してくれた。
「学生のときは腹が減って仕方がなかった。腹が減って積分の問題が解けなかった」
 学生時代に苦労があったのだなと思った。こういうことを話してくれるのはありがたかった。

「用務員のおじさんの壮絶な戦争体験」
 昭和56年頃だった。夷隅郡の大原中学校には住み込みの用務員のおじさんがいた。おじさんはウナギの味付けが上手で時々近くの川で採ったウナギをかば焼きにしてごちそうしてくれた。
 おじさんは中国戦線にいた。ある時,ウナギを食べながら戦争の話をしてくれた。
「戦いが白兵戦になったことがある。戦いが終わったとき,よく生きていたと思った。」
 白兵戦とは銃剣をつけて戦うような接近戦のことで,互いの顔を見て殺しあう戦いだ。大変な戦いをくぐり抜けてきたものだと思った。
おじさんはさらに続けた。
「日本軍は軍隊内のいじめがひどかった。些細なことでひどい制裁を受けた。便所の小便を飲まされたこともあった。ものすごく辛かった。それでこんな日本軍にいられないと思って脱走した。八路軍(中国軍)のほう向かって逃げた。すると日本軍の捜索隊が追ってくるのが見えた。捕まったら敵前逃亡罪で銃殺だ。必死で逃げて八路軍の捕虜になった。八路軍は「兵隊が悪いのではない,国が悪いのだ」といって親切に扱ってくれた。腹いっぱい饅頭を食べさせてくれた。しかし,衛生状態が悪くて虫がわいて困ったよ。」
 一兵卒として戦い,生き残って日本に帰ってきたおじさんはずっと前に亡くなった。かっこいい戦争なんてありゃしない。平和になってようやく辛い思い出を話せるようになったのだ。
おじさんが私に語ったことは何十年も記憶にしまわれ,ようやくここに出口を見つけた。このような戦争体験を話してくれた人はいなかった。おじさんには感謝している。

「茂原市の掩体壕」
 茂原市には海軍航空隊の飛行場跡がある。掩体壕は敵飛行機の攻撃から飛行機を守るための分厚いコンクリート製の格納庫だ。これが住宅地域にいくつも残っている。茂原農業高校の生徒たちが建設に参加したと立て札には書かれている。また,滑走路跡は長い一直線の道路になっている。コンクリートに手を触れると汗を流して働く茂原農業高校の生徒たちの姿が見えるような気がした。

「小学校の防空壕」
 勝浦市立豊浜小学校は海辺の山の上を切り開いて建てられた学校だ。急な狭い坂を上ると学校がある。学校を取り巻く山の岩盤には防空壕がいくつか掘られている。入口は狭いが奥は広くなっている。空襲警報が鳴ると先生と子どもたちがこの中で息をひそめたのだろう。戦後70年以上たってもそのまま残っている。

「お寺の廊下の遺影」
 勝浦市部原の長秀寺を訪れた折,本堂の廊下に額に入れられた写真がいくつも並んでいた。出征する兵士の写真だった。家の前で撮られたもので皆にこにこしていた。当時はカメラを持っている家などなかったから写真屋に撮ってもらったのだろう。写真はとても鮮明でつい昨日撮られたように感じた。この人たちは帰ってこなかったのだな,遺骨もないのだろうと思った。遺族は亡き人をしのんでお寺に写真を掲げたのだろう。

「忠魂碑」
 大多喜町立西小学校を訪れたときのこと。校庭の隅の一段高いところに忠魂碑があった。黒い岩石の碑には何百もの名前が刻まれていた。〇〇村 陸軍伍長〇〇など。出征した人たちの出身地区と名前であった。この山奥からも大切な人たちが戦争に行ったのだ。そして帰ってこなかった。その人たちを忘れまいと建てられた碑であった。今はひっそりと子どもたちを見守っている。

「処刑されたイギリス空軍の若いパイロット」
 一宮町での出来事であり,近年千葉日報に掲載された記事だ。  イギリス人パイロットが捕虜になり旅館に連行されてきた。まだ22歳くらいの青年だった。パンツ一枚の裸姿だった。女将さんはかわいそうに思って浴衣を着せてあげたそうだ。青年はとても喜んだそうだ。そしてにこにこしながら首にかけていたペンダントを開けて見せてくれたそうだ。中には恋人らしい若い女性の写真があったという。  数日後,青年は近くの道庭湖という池の裏山に連れていかれた。パーンという銃声とともに青年の命が終わった。
 私はこの記事を読んでとても悲しい気持ちになった。戦争とはいえむごい。この青年が生きて故郷に帰ったなら家族や恋人はどんなに喜んだことだろうか。

「早稲田大学の戦没者記念碑」
百日紅
2005年10月23日植樹
「 日中戦争および太平洋戦争は4700名以上にもおよぶ早稲田大学校友・学生・教職員の尊い命を奪った。
 戦後60年を迎えた今年,早稲田大学は恒久の平和を祈念した植樹を行う。
 この平和を祈念する植樹は,戦争犠牲者となられた早稲田大学校友のご遺族から寄せられた浄財をもとにしていることを付言しておく。」
 早稲田大学大隈庭園の一角に太平洋戦争で犠牲になった学生と職員を追悼・慰霊する碑がある。遺族の人たちによって建てられたものだ。学生・職員あわせて4700名以上が亡くなったと書かれている。そしてその碑の脇にもう一つの碑があり,学徒出陣後の学校の変わり果てた様子を詠んだ女子学生の句が刻まれている。

征く人のゆき果てし校庭に音絶えて木の葉舞うなり黄に輝きて

 4700人以上もの校友・学生・職員が戦没者をだしたことを決して忘れてはならないだろう。女学生の詩と合わせて,この戦争が何であったのかを教えてくれる。

「杉原千畝記念碑」

「外交官としてではなく 人間として当然の正しい決断をした」
 早稲田大学校内に杉原千畝氏の記念碑があります。彼の出身校である早稲田大学にイスラエル大使館から贈られました。彼は第二次世界大戦中,ユダヤ人にビザを発給して約6000人もの命を救いました。この時命を助けられたユダヤ人の子孫たちは,今なお彼に感謝しているということです。

[おわりに]
 今は覚えていることもやがては消え去ります。それらをもっと大切にしなければいけないという思いがありました。
 記憶を掘り起こして繋ぎ合わせると戦争の姿が浮かび上がりました。それはメディアで見るものとは違い,生身の人間の息遣いが聞こえるものでした。
 私たちの心に宿る記憶の断片が消え去る前に語り継ぐことが大切であると思いました。
2019年12月16日
樹医SATO
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